高杉晋作.com

周布政之助 (すふ まさのすけ)

 

周布政之助は、村田清風の跡を継ぎ、長州藩のトップとして活躍した人物です。
高杉晋作ら、若い藩士たちのよき理解者として、尊皇攘夷を推進しました。
反面、酒癖が悪いことでも有名で数々の逸話を残しています。

 

1823年(文政6年)、長州藩大組、周布兼正の五男として萩城下に生まれました。

 

1847年(弘化4年)、長州藩より、蔵元検使暫役として抜擢され、
藩の役人としての仕事をスタートしました。

 

1852年(嘉永5年)、政務役に抜擢され、藩財政の立て直しに力を注ぎました。

 

1855年(安政2年)、藩内の派閥争いに敗れ、辞職させられてしまいました。
この時期、長州藩では村田清風・周布政之助の正義派と、
坪井九右ヱ門・椋梨藤太らの俗論派の、2つの派閥がことあるごとに対立
していたのです。

 

1858年(安政5年)、椋梨藤太らが失脚したのに伴い、政務役に返り咲きました。

 

1862年(文久二年)、長州藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に、最初のうちは支持していましたが、
久坂玄瑞、桂小五郎らの攘夷派若手藩士らに説得され、反対派に回りました。

また、この年、土佐藩前藩主山内容堂に対し、酒に酔って暴言を吐いてしまったため、謹慎処分を受けました。
このとき、名前を「麻田公輔」と改めました。

 

1864年(元治元年)、酒に酔った勢いで、投獄中の高杉晋作に会いに行き、再び謹慎処分を受けました。
周布政之助の謹慎中、長州藩は禁門の変や長州征伐などにより、大きな痛手を受けていました。
また、藩の実権も俗論派に握られてしまい、周布政之助は、その責任をとって自刃しました。享年42歳でした。

 

周布政之助旧宅跡周布政之助旧宅跡(萩市土原)

旧周布家長屋門旧周布家長屋門(萩市堀内)

周布政之助の碑周布政之助の碑(山口市周布町)

 

 

このページのトップへ     

< < 伊藤博文    坂本龍馬 > >