高杉晋作.com

伊藤博文 (いとうひろふみ)

 

伊藤博文
伊藤博文

 

伊藤博文は、松下村塾門下生として、倒幕に奔走し、
明治維新後も、初代内閣総理大臣として新政府の礎を築いた人物です。

2歳年上の高杉晋作とは家も近かったのですが、身分の違いなどから、松下村塾に入門するまでは、特に交流はなかったようです。

 

1841年(天保12年)、熊毛郡束荷村(現・山口県光市)の林十蔵・琴子夫妻の長男として生まれました。
曾祖父・半六の幼名「利八郎」と祖父・助左衛門の両頭字を取って「利助」と名づけられました。

 

1849年(嘉永2年)、単身赴任していた父・十蔵と一緒に暮らすため、萩に移住しました。

 

1853年(嘉永6年)、吉田松陰の親戚である、久保五郎左衛門の塾に通い始めました。

 

1854年(安政元年)、父が伊藤家の養子となり、一家共々伊藤姓を名乗ることになりました。このとき「俊輔」と改名しています。

 

1856年(安政3年)、長州藩が任されていた相州(神奈川)の警備を担当することになり、生まれて初めて長州の地を離れました。

 

1857年(安政4年)、作事吟味役・来原良蔵の部下となりました。
一年の任期が終わり、萩に帰ると、来原良蔵が紹介してくれた松下村塾の門下生となりました。

 

1858年(安政5年)、吉田松陰に推薦され、山縣有朋らと共に京都へ情勢視察に行きました。これをきっかけに伊藤博文は、尊皇攘夷が必要だということを肌で感じることが出来ました。
京都での視察を終え、萩に帰ってくるとすぐに、今度は来原良蔵のお供として、長崎へ向かいました。
長崎では、洋式銃を使った戦術などを学びました。

 

1859年(安政6年)、桂小五郎とともに江戸へ向かいました。初めて行った江戸では、さまざまな刺激を受けました。

 

1862年(文久2年)、高杉晋作らと英国公使館の焼討ちを実行しました。

 

1863年(文久3年)、長州藩の代表として、井上聞多(井上馨)、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三とともに英国へ密留学しました。
伊藤博文を含めたこの5名は、のちに「長州五傑(長州ファイブ)」と呼ばれました。

 

1864年(元治元年)、英国より帰国し、高杉晋作の通訳として、連合国との講和談判に加わりました。

またこの年、高杉晋作の功山寺挙兵に力士隊を率いて参加しました。

 

1866年(慶応2年)、芸妓だった梅子と結婚しました。

 

1868年(慶応4年)、外国事務掛に任命されました。

 

1868年(明治元年)、兵庫県知事となりました。

 

1869年(明治2年)、 木戸孝允の計らいで、東京に引越し、明治政府の要職を歴任することになりました。

 

1871年(明治4年)、岩倉具視を中心とした岩倉使節団に副使として参加し、欧米諸国を訪問しました。その航程は1年8ヶ月にもおよびました。またこの年、「伊藤博文」に改名しました。

 

1885年(明治18年)、初代内閣総理大臣となりました。その後さまざな人物と交代しながらも、生涯で4度、内閣総理大臣に就任しています。

 

1889年(明治22年)、伊藤博文が草案作りに奔走した、大日本帝国憲法が発布されました。

 

1905年(明治38年)、韓国を統治する責任者・韓国統監となりました。

 

1909年(明治42年)、韓国のハルビン駅で韓国の民族運動家・安重根(アンジュングン)に暗殺されました。享年69歳でした。

 

伊藤博文像伊藤博文像(山口県萩市椿東)

伊藤博文別邸伊藤博文別邸(東京府下荏原郡大井村より移築)(山口県萩市椿東)

 

このページのトップへ     

< < 桂小五郎    周布政之助 > >