桂 小五郎 (かつら こごろう)
桂小五郎は、松下村塾門下生ではありませんが、吉田松陰とは師弟関係にありました。
高杉晋作ら、松下村塾門下生の兄貴分として、みんなから慕われていたようです。
薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに、維新の三傑と呼ばれています。
1833年(天保4年)、長門国萩呉服町江戸屋横丁(山口県萩市呉服町)にて、萩藩医・和田昌景の長男として生まれました。
高杉晋作の生家とは、かなり近い場所です。
1845年(弘化2年)、藩校明倫館に入学しました。
1849年(嘉永2年)、当時、藩校明倫館の講師だった吉田松陰の兵学門下生となりました。
1852年(嘉永5年)、剣術修行の目的で江戸へ留学し、剣術家・斉藤新太郎(練兵館所属)の門下生となりました。
1862年(文久2年)、長井雅楽の暗殺を計画しそうになった高杉晋作を説得、上海視察へ旅立たせました。
1864年(元治元年)、来島又兵衛の説得に失敗し、藩に無断で京都に行ってしまった高杉晋作を説得し、萩へ戻らせました。
またこの年、京都で池田屋事件が起こり、桂小五郎もその場に居るはずでしたが、運よく事件に巻き込まれずにすみました。
1866年(慶応2年)、長州藩の代表として、薩摩藩と薩長同盟を結びました。
1867年(慶応3年)、明治新政府が発足、桂小五郎は「版籍奉還」を提案し、全国に浸透していきました。
またこのころ、「木戸孝允」と改名しています。
1870年(明治3年)、明治維新により、解散させられた諸隊の一部の隊士が山口にて反乱を起こしました。事態を重くみた木戸孝允は、常備軍を投入し、反乱を沈静化させました。
またこの年、西郷隆盛らの要請により、参議となりました。
1871年(明治4年)より、岩倉具視らとともに、岩倉使節団の副使としてアメリカ、フランスなどを訪問しました。その航程は1年8ヶ月にもおよびました。
1874年(明治7年)、参議兼文部卿(文部大臣)となりましたが、大久保利通による台湾出兵に反対し、わずか4ヶ月で辞職しました。
1877年(明治10年)、かねてから重病化していた正体不明の脳発作が悪化し、この世を去りました。享年45歳でした。
桂小五郎(木戸孝允)誕生地(萩市大字呉服町2丁目)
桂小五郎(木戸孝允)誕生地(萩市大字呉服町2丁目)
岩倉使節団(桂小五郎、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)