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吉田稔麿 (よしだ としまろ)

 

吉田稔麿は、高杉晋作と同じく、松下村塾にて吉田松陰の門下生として学びました。
松下村塾では、増野徳民に続く、二番目の入門者でした。
吉田松陰からの期待も厚く、松下村塾では、高杉晋作、久坂玄瑞と共に村塾の三秀といわれていました。
また、入江九一を含めて、松下村塾四天王とも呼ばれていました。

 

1841年(天保12年)、萩藩松本村新道に足軽吉田清内の長男として生まれました。
武士の中では最下層の家柄であったため、苦労続きの幼少時代でした。

 

1856年(安政3年)、増野徳民の紹介で、吉田松陰の松下村塾に入門しました。
吉田松陰は吉田稔麿に「無逸(むいつ)」というあだ名をつけ、とてもかわいがっていました。

 

1858年(安政5年)、吉田松陰が野山獄に投獄されることが決まると、
家族からの反対もあり、師に今後会わないという決心をしました。

 

1860年(万延元年)、藩を脱藩し、長州藩としての意見を幕府に伝えるため、
江戸へ行きました。

 

1861年(文久元年)、旗本妻木木多宮の家臣となりました。

同年、高杉晋作が立ち上げた、長州藩だけの尊皇攘夷運動組織に
参加しました。

 

1863年(文久3年)、高杉晋作が創設した奇兵隊に参加しました。
その後、自ら屠勇隊(とゆうたい)を創設しました。
朝陽丸事件(朝陽丸で長州にやって来た幕府の使節3名が、奇兵隊士に暗殺された)では、進んで問題解決にあたり、事態の沈静化に成功しました。

 

1864年(元治元年)、京都の池田屋にて、新撰組に襲撃され(池田屋事件)、
奮闘の末、討ち死にしてしまいました。享年24歳でした。

 

吉田稔麿誕生地吉田稔麿誕生の地(吉田稔丸誕生地)(萩市椿東)

 

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