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吉田松陰(よしだしょういん)

 

吉田松陰

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吉田松陰は、高杉晋作の人生に、
もっとも影響を与えた人だといえます。
松下村塾を主宰し、討幕や明治維新で活躍した人たちを
数多く輩出しました。
高杉晋作のほか、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、
伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などが吉田松陰の門下生です。

 

1830年9月20日(天保元年8月4日)、吉田松陰は、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)の
萩藩士・杉百合之助、瀧の次男として生まれました。
その後、父の弟である吉田大助の養子となり、吉田家をつぐことになりました。

 

1840年(天保11年)、藩主毛利敬親の前で戦法の講義し、その実力が認められ藩校明倫館の教授となりました。

 

1851年(嘉永4年)、江戸へ行き、佐久間象山の門下生となりました。

 

1853年(嘉永6年)、米国のペリー艦隊の来航を見て、外国留学の意志を固めました。
同じ長州藩出身の金子重輔と共に、長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込む計画を立てましたが、あえなく失敗に終わりました。

 

1854年(安政元年)、ペリーが日米和親条約締結の為に二度目の来日をした際、再び金子重輔と二人で停泊中のポーハタン号へ乗船して、密航を嘆願しましたが、拒否されてしまいました。密航しようとしたことが幕府にばれてしまい、萩の野山獄へ投獄されました。

 

1855年(安政2年)、野山獄を出たのち、自宅謹慎中に講義を始め、その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けました。

 

1858年(安政5年)、幕府が朝廷の許可無く、勝手に日米修好通商条約を結んだため、そのことを非難した吉田松陰は、首謀者のひとり、老中の間部詮勝の暗殺を企てました。暗殺計画に驚いた長州藩は、吉田松陰を再び野山獄へ投獄しました。

 

1859年(安政6年)、安政の大獄により幕府の命令で江戸へ送られました。
取調べの場で老中暗殺計画を自供し、同年、江戸伝馬町の獄において処刑されました。享年30でした。

 

吉田松陰誕生の地吉田松陰誕生の地(萩市椿東)

松下村塾発祥の地松下村塾発祥の地(萩市椿東)

松陰神社松陰神社(萩市椿東)

吉田松陰の墓吉田松陰の墓入り口(萩市椿東)

 

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