1867年 死去
以前より、肺結核におかされていた高杉晋作の病状は、
小倉口の戦いのころには、立てなくなるほどに悪化していました。
それでも、無理をして陣頭指揮をとろうとする高杉晋作に対し、
長州藩は療養に専念するよう命令しました。
高杉晋作は、藩の命令に従い、下関の桜山招魂場下の家で療養生活に入りました。
けれども、すでにすべての力を出しきっていた晋作には、遅すぎる療養生活でした。
慶応3年4月14日(1867年5月17日)、「おもしろきこともなき世をおもしろく」という辞世の句を残し、
高杉晋作は、28歳という若さで、その激動の人生の幕を閉じました。
かつて晋作が、吉田松陰から死生観について聞いた言葉に次のようなものがあります。
「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。」
師の教え通り、数々の命の危険をおかしながら、晋作は生き抜いてきました。
そして、また師の教え通り、高杉晋作は不朽の功績を残しこの世を去っていったのです。
高杉晋作のなきがらは、奇兵隊の本拠地である下関吉田に葬られました。
高杉晋作が亡くなって、半年後、15代将軍徳川慶喜は、政権を返上することを申し出ました。(大政奉還)
260年あまり続いた江戸幕府が倒れ、明治時代の始まりとなりました。
高杉晋作終焉の地(下関市上新地町)
高杉晋作のお墓(山口県下関市吉田町1184:東行庵)