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1864年 功山寺挙兵

 

連合軍との講和談判が整ってすぐ、長州藩内では、幕府寄りの政治を推し進める、
俗論党が要職を占めることになってしまいました。
これにより、討幕を推し進めていた高杉晋作の仲間たちは、次々に排除されていくことになりました。
井上門多は襲われ瀕死の重傷を負い、周布政之助は藩政を窮地に追い込んだ責任をとり自決、
高杉晋作も、自分の身の危険を感じはじめていました。

 

このままでは自分の命も狙われると悟った晋作は、福岡の平尾山荘に住んでいる、
野村望東尼(のむらもとに)のもとに潜伏し、長州の情勢を見守ることにしました。
長州藩がどんどん幕府寄りになっていく様子を、しばらくみていた高杉晋作は、
いまこそ行動をおこすときだと判断し、下関に戻りました。

 

下関に着くとすぐ、高杉晋作は諸隊をまわり、
「兵を挙げて幕府寄りの俗論党と闘おう」と説得してまわりました。
すぐにその説得に応じてくれたのは、遊撃隊と力士隊のふたつだけ、
約80名という小さな兵力ではありましたが、晋作には、
いずれは他の諸隊も同調してくれるだろうという確信があったようです。

 

そして約80名の兵は、長府の功山寺に集結しました。
まずは下関で長州藩の奉行所を襲撃、そして、三田尻で奇襲攻撃をしかけ、藩の軍艦3艇を強奪しました。
この活躍に他の諸隊も次々に同調、兵力はどんどん増えていき、2000人にも達する規模となりました。
大田絵堂の戦いを皮切りに、次々に正規軍と交戦し、勝利していきました。

 

約2ヶ月もの戦いの末、俗論党政権は追放され、藩政は討幕へと踏み出すことになりました。

 

功山寺仏殿功山寺仏殿(下関市長府川端1丁目2-3)

高杉晋作回天義挙像高杉晋作回天義挙像(下関市長府川端1丁目2-3:功山寺内)

回天義挙之所碑回天義挙之所碑(下関市長府川端1丁目2-3:功山寺)

萩藩新地会所
萩藩新地会所跡(下関の長州藩の奉行所)(下関市上新地町1丁目)

金麗社大田絵堂の戦い本陣跡(美祢郡美東町大田:金麗社)

 

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