高杉晋作.com

1864年 連合国と講和談判

 

1864年8月、長州藩の攻撃によって大打撃を受けていたイギリスが中心となり、
フランス、オランダ、アメリカと共に四国連合艦隊を結成、下関に再度攻撃を仕掛けました。
このときには奇兵隊も応戦しましたが、近代兵器の威力にはかなわず、敗戦が濃厚となりました。
そして長州藩は戦いをやめ、講和の道を選ぶこととなりました。
野山獄を出た後、自宅で謹慎中だった高杉晋作を呼び出し、講和の全権を任せることにしました。

 

連合軍との話し合いの場に立った高杉晋作は、悪魔のように傲然として交渉にのぞみました。
欧米側の要求は、「賠償金300万ドルの支払い」と、「長州藩の領地である彦島を借してくれ」とのことでした。
晋作はこれをきっぱりと拒否しながらも、攘夷を捨てることはあっさりと約束しました。
こうして、何度かの話し合いで、講和談判をまとめあげました。
これにより、長州藩は一つの危機を脱出することができました。

 

この講和談判をきっかけに、長州藩は尊王攘夷から尊王討幕に転換しました。

 

連合国と講和談判関門海峡

 

このページのトップへ     

< < 野山獄に投獄    功山寺挙兵 > >