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1863年 奇兵隊結成

 

長州藩はアメリカやフランスの艦隊からの猛攻撃により、圧倒的な武力の差を見せつけられました。
この難局を乗り切るため、長州藩主・毛利敬親は、隠遁中の高杉晋作を呼び出し、
関門海峡の防衛についての対応策をたずねました。
晋作は「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」との提案をしました。
敬親は晋作のアイデアを承認し、下関の防衛を晋作に任せることにしました。
これにより、10年の予定だった晋作の隠遁生活は、わずか2ヶ月で終わってしまいました。

 

平和な世の中に慣れてしまった武士だけでは、力にならないと感じていた晋作は、
身分に関係なく広く兵士を募集しました。
これは、吉田松陰の教えの中のひとつ、「草莽崛起(そうもうくっき)」という考え方によるものです。
「草莽崛起」とは、すべての人が身分に関係なく世の中をよくするために立ち上がろうという思想です。
吉田松陰の教えを忠実に受け継いだ高杉晋作は、奇兵隊の結成に草莽崛起の思想を取り入れました。

 

こうして集まった民兵組織「奇兵隊」を、下関の白石正一郎の邸宅で立ち上げ、初代総督に就任しました。

 

高杉晋作が立ち上げ、その後、討幕に向けて大活躍することになる奇兵隊ですが、
晋作の奇兵隊総督としての役目は、わずか3ヶ月で終わってしまいました。
長州藩には、武士だけで構成された正規軍がすでにありましたので、
いうなれば新参者の奇兵隊とは、事あるごとに衝突していました。
そしてついには、奇兵隊が正規軍先鋒隊の宿舎に押し入って、
隊士を斬り殺すという事件も発生してしまいました。(教法寺事件)

これをきっかけに、高杉晋作は総督を解任されました。

 

白石正一郎旧宅跡奇兵隊結成の地・白石正一郎旧宅跡(下関市竹崎町3丁目)

桜山招魂場戦死した奇兵隊士が祭られた桜山招魂場(下関市上新地町2丁目)

 

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