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1863年 隠遁(いんとん)

高杉晋作は周布政之助に対して、今こそ倒幕に向けて動くべきだと提言しました。
しかし、周布政之助の返事は、「それには10年早い、その時期が来るまで待ったほうがいい」とのこと。
それを聞いた高杉晋作は「それならば、10年間、暇を頂きます」と藩に休暇願を提出し、
あっさりと認められました。

 

晋作は、髪を切って坊主になり、吉田松陰の生誕地、松本村の近くで草庵を結び、
10年間の隠遁生活に入ってしまいました。
このころ、晋作は、尊敬していた歌人、西行にちなんで東行(とうぎょう)と名乗っていました。

 

高杉晋作が隠遁生活を送っていたころ、幕府や長州藩では大きな動きが起こり始めていました。
幕府は朝廷からの圧力に負け、攘夷を決行することになったのです。
その攘夷期限がくると、長州藩は、関門海峡を通る外国船を次々に、無差別に攻撃し始めました。
しばらくは長州藩の優勢が続いていたのですが、その後、アメリカとフランスの猛反撃にあい、
長州藩は、またたく間に寛大な被害を受け、危機的な状況におちいってしまったのです。

 

草庵跡草庵跡(萩市椿東松本)

壇ノ浦砲台跡壇ノ浦砲台跡(下関市みもすそ川町1)
※写真の大砲はレプリカです。

天保製長州砲天保製長州砲(下関市みもすそ川町1)
※原寸大レプリカです。

 

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