1862年 英国公使館焼き討ち
高杉晋作が上海視察から帰国したころ、「航海遠略策」は朝廷により却下され、
長井雅楽はすでに立場を失っていました。
これにより、長州藩の方針は、「公武合体」から「即今攘夷」に転換されていたのです。
即今攘夷(そっこんじょうい)とは、ただちに外国を撃退しようという思想です。
上海から帰ったばかりの高杉晋作は、ただちに行動を起こすべきだとの思いにかられ、
他藩の藩士たちと共に、横浜の外国人を暗殺する計画を立てました。
しかし残念ながら、この外国人暗殺計画はあっさりと長州藩に洩れてしまいました。
今は混乱を起こすべきではないと、長州藩からの警告をうけ、
計画の決行を取りやめることになりました。
その後、晋作は、長州藩だけの尊皇攘夷運動組織を立ち上げました。
当時、品川に建設中だった英国公使館に火を放ち、
これをきっかけに長州藩対幕府の戦争を勃発させるという計画だったようです。
この焼き討ちは成功し、英国公使館は炎上しました。
けれどもこのことを、幕府がそれほど大きく取り上げなかったため、
本来の目的である、「長州藩対幕府の戦争勃発」は、実現しませんでした。
結局、この計画は失敗に終わってしまいました。