1859年 吉田松陰処刑
1858年より安政の大獄が始まりました。
(幕府の大老・井伊直弼、老中・間部詮勝らの
「朝廷の許可なしで日米修好通商条約を結ぶ」計画に反対した人たちを、
権力を使って抑圧した事件)
このことに憤慨した吉田松陰は、水戸藩などの同士たちと一緒に、
老中の間部詮勝の暗殺を計画していました。
暗殺計画を知った長州藩は、びっくりして、
吉田松陰を萩の野山獄という牢屋へ入れ、
松下村塾を閉鎖してしまいました。
その後、吉田松陰は梅田雲浜(うめだうんぴん)とのつながりを疑われ、
幕府の命令により江戸の伝馬町獄へ投獄されました。
梅田雲浜は、幕府を批判していたため、安政の大獄で摘発され、
投獄されていた人物です。
昌平黌の学生であった高杉晋作は勉強のかたわら、
獄中の吉田松陰の世話役として、精力的に尽くしました。
けれども、晋作が松陰に近づくことを良く思っていなかった父・小忠太は、
藩に依頼し、晋作を萩に呼び戻してしまいました。
晋作が江戸を離れ、萩に向かっているそのころ、
吉田松陰の取調べが行われました。
梅田雲浜との関係は否定していた吉田松陰ですが、
間部詮勝の暗殺を計画していたことについて正直に話してしまい、
これにより死罪が確定しました。
高杉晋作が吉田松陰の死を知ったのは、萩に到着してからのことです。
まさか師匠が処刑されるとは思ってもみなかった晋作は、
悲しみと怒りに震え上がりました。
そして吉田松陰の志を、受け継ぐ覚悟を心に決めました。
野山獄跡(萩市古今萩町2)