1858年 江戸遊学
1858年に入ると、全国へ遊学(国内留学)する松下村塾生が増えました。
これは、吉田松陰の強い勧めによるものです。
塾生たちは、遊学により現実の日本を知ることができました。
また、吉田松陰のもとへは、塾生たちから全国各地の情報が寄せられ、
飛耳長目帳(ひじちょうもくちょう)と呼ばれる資料に
まとめられていきました。
この飛耳長目帳により、吉田松陰や長州に残った塾生たちも、
全国の現実を知ることが出来ました。
全国へどんどん出て行く塾生たちの姿を見ていた高杉晋作は、
自分だけが取り残されたような気持ちになり、
ついには、吉田松陰に遊学の仲介をしてくれるよう頼みました。
それを受けた吉田松陰は、藩の重職についていた周布政之助に、
藩政府より晋作を遊学させてくれるようお願いし、
ついに晋作の江戸遊学が認められることになりました。
江戸に到着すると、まず、大橋訥庵(おおはしとつあん)の大橋塾に入門しました。
そしてその後、本来の目的である昌平黌(しょうへいこう)に入門します。
期待いっぱいでやってきた江戸遊学でしたが、
どちらも、晋作にとっては全く役に立たない講義ばかりで、がっかりしてしまいました。
昌平黌(湯島聖堂)(東京都文京区湯島一丁目)(PDD)